1Q84 牛川
1Q84、ようやく文庫化版がすべて出版されたので、読んでみた。
ハルキ本はいままで文庫で揃えていたので、このときをまっていたのだ。
※以下完全にネタバレです。
1Q84では、牛川という人物が登場する。
牛川は『ねじまき鳥クロニクル』にも登場し、その醜悪な容姿や、社会のダークサイドに通暁している点、主人公たちに直接害意はないが、その職務の都合上彼らに付きまとう点などにおいて、とても似ている。
『ねじまき鳥クロニクル』において牛川は、主人公に敵対する経済学者あがりの政治家・綿谷ノボルに雇われ、主人公の身辺をうろうろ嗅ぎ回っていたが、転職という形で物語の終盤に退場する。
転職の理由はこうだ。
綿谷ノボルは自分と同種の"下種(ゲス)"な人間だ、人間何が憎いかと言えば、『自分が激しく渇望しながら手に入れられないものを、ひょいと 手にいれている人間を目にするときですよ。(略)それも相手が身近にいればいるほど、その憎しみは募ります。(略)そしてわたしにとってはそれが綿谷先生 だったんですね。』
この意味で、『ねじまき鳥クロニクル』では牛川は小さな綿谷ノボルに過ぎない。
一方『1Q84』においても、仕事のために主人公の身辺を嗅ぎ回る、という大筋は同じだが、こちらの牛川は依頼主である宗教団体とは独立した思想、考えのもと行動する。
1Q84 BOOK1,2では、二人の主人公である青豆、天吾視点の物語が各章ごとに交互に織りなされるが、BOOK3では、牛川も加わって三人のパースペクティブが繰り返し現われ、牛川の行動、思考、意思、生い立ちが語られ、"嗅ぎ回られる"立場ではなく、”嗅ぎ回る”ということがどういうことか詳述される。
『ねじまき鳥クロニクル』では気味が悪いだけの、いわばモノトーンの人物だった牛川が、劣悪な環境で手持ちのリソース(自分の頭で考えられる頭脳、一度しがみついたら離さない根気、そしてほんとうのことを嗅ぎ分ける嗅覚)を最大限活用しながら、迷いながらも自身を意志的に信じて、主人公たちを追いつめていく姿に、がんばれ牛川さん!と心の中で応援してしまったのは私だけじゃない気がする。
しかるにそんな声援むなしく、牛川は青豆の味方に割とあっさりと殺されてしまう。
牛川のやっていたこと・やってきたことは青豆やその依頼人にとって、とても危険なことであったし、道義的にも褒められたことではない。
しかし、牛川の視点で物語を辿ってしまった今、牛川は牛川になるしかなかったし、よくぞここまで牛川になった!あっぱれ!と言いたくなる。
トラップだらけの薄暗い迷路に生まれ、生き延びることができる数少ない道を嗅ぎ分け、たどり着いた最後にビニール袋を頭に被せられ、窒息して絶命した牛川。
彼の生きる意味はいったいなんだったのだろうか?
主人公たち、特に青豆はそれをしばしば問う。結局、青豆は天吾が、天吾は青豆なしでは生きていけない、お互いが、それぞれにそう確信する。そして彼らは生き残る。
牛川にはそんなものはない。娘二人と見た目の悪くない伴侶と、中央林間の小さな家で過ごした日々をときおり思い返すのも、やり直したいわけではない、そんな日々がかつて自分にあったことを不思議に思うだけだ。
そういう積極的な生きる意味を持たない人間は、殺されてもやむをえない、というメッセージなのだろうか。
だってこのおじさん悪いことをしていたんです、見た目も汚いんです。
そんな声も聞こえる。
でも、それでも、生きていたい、というのが生き物なのだと思う。
『盗撮』のために、数年後に取り壊される老朽化したアパートの一室に独り籠り、買い貯めた飯を小分けにして食べ、寝袋に包まり虫のように眠る日々にも、凍える夜の電気ストーブのぬくもりに生きる喜びはあるのだ。
You can make money without doing evil.
とGoogleはいう(*1)。
それは豊かな環境、才能に恵まれた者たちであればこそ可能であって、選択の余地のない、そうするかしかない道を辿ってきたら、evilになっていた人々にかけることばではない。
人には、みな生い立ちがある。そこに救いがある。
致命的なのは、そのような生い立ちを持つ悪ではない。太古から続いている、でも歴史を持たない、人と人の隙間に立ち現れる何かなのだと思う。
それは本作でリトルピープルと呼ばれているものだ。
pmap
特定のプロセスのメモリ利用状況を確認するときはpmapを利用する。
pmap -x 13100
13100: -bash
Address Kbytes RSS Dirty Mode Mapping
0000000000400000 712 456 0 r-x-- bash
00000000006b2000 40 40 40 rw--- bash
00000000006bc000 20 20 20 rw--- [ anon ]
00000000008bb000 32 8 0 rw--- bash
・・略・・
total kB 19124 1416 352
Mapping中のanonは、当該プロセスのデータ領域を示す。
キャッシュの整理
Windows、Linuxでも何でもそうだが、プログラムを初めて立ち上げたときより2度目以降の方が高速になる。
「一回ディスクから読み込んだら、その後はディスクを介さないでメモリとアクセスするだけでよいから速いんだろう」
という以上のことを知らないので調べてみた。
キャッシュの効果
ディスクはメモリに比べて、100000〜1000000倍遅い。
ディスクアクセスを極力減らしてメモリで処理できれば、その分高速に処理できる。
ファイルキャッシュの単位
メモリ・ディスク間の読み書きはページ単位で行われる。
Linuxでは1ページは4KB。
ファイルキャッシュを利用した読み込みのフロー
1.プロセスがカーネルへデータ読み込みを要求。
2.(該当データがページキャッシュにない場合)
カーネルは新たにページキャッシュを作成し、ディスク読み込みを実行する。*1
読み込みが完了するまでプロセスはsleepする。
3.カーネルはページキャッシュからプロセスへ要求されたデータを渡す。
キャッシュを利用した書き込みのフロー
1.プロセスがカーネルへデータ書き込みを要求。
2.(該当データがページキャッシュにない場合)
カーネルは新たにページキャッシュを作成し、ページキャッシュに書き込みを実行する。
ディスクとメモリのデータが不整合になるので、Dirtyフラグを立てる。
3.その後、カーネルは他の書き込みとまとめて、ページキャッシュからディスクにデータを書き出す。Dirtyフラグを削除する。
キャッシュを使わないで読み書きして性能を測りたい、という話が以前職場であったが、これはそもそも無理だろう。
ファイルキャッシュの状況
Linuxであれば、vmstatの"cache"で使用量が調べられる。
なお、"buff"はバッファキャッシュの使用量。
バッファキャッシュとは、ファイルシステムを経由せず直接ブロックデバイスとやり取りするためのキャッシュ。
バッファキャッシュの利用例として/dev/sdaへの操作がある。
鬼餅(ムーチー)
旧暦の12月8日、沖縄諸島ではムーチー(鬼餅)行事があるそうだ。
ムーチーとは月桃やクバの葉で包んだ餅のことで、これを食べて子供や家族の健康祈願をする。
さてこの鬼餅だが、以下の鬼退治の昔話に由来している。
昔、首里の金城村に両親に先立たれた兄と妹が貧しくも仲良く暮らしていた。
兄はひょんなことから、大里(うふざと)というところに移り住んだ。
ある日、妹はこんな噂を耳にする。
兄が夜な夜な村を襲い、鶏や牛を盗み、更には人間までも殺して食べている。
妹は兄の住む大里まで行き、噂がほんとうだったことを確かめてしまう。
鬼になった兄を退治する決意を固めた妹は、中に鉄をいれたお餅とふつうのお餅を作って兄を誘い、断崖絶壁の上の野原でいっしょに食べることにする。
兄には鉄のお餅、自分にはふつうのお餅。
兄は鉄の餅を噛み切れず、妹が平気で食べるのを見て愕然とする。
鬼の自分でも食べられない程堅いものを、妹はおいしそうに食べている!
餅を食べあぐねた鬼の目に妹のホー(陰部)が映る。
兄はそれを不思議に思い、「お前の下の口は一体なんだ?」と尋ねる。
妹はこう答える。
「上の口は餅食う口、下の口は鬼食う口」
着物を捲し上げ、兄の顔前に晒す。
恐れの余り兄は後方に退き、崖から落ちて死ぬ。
インパクトの強い話だ。
多分ずっと忘れないだろう。
昔話は何世代にも渉って人々が繰り返し記憶し、繰り返し語り聞かせた話である。
とすれば、多くの人間が飽くことなく記憶し、語りたくなるようなエンジンが物語の中には仕掛けられている。
昔話は忘れられないように、人に伝えたくなるようにできているのである。
だから、僕は今物語によってキーボードを叩くよう促されていると言える。
鬼餅昔話のエンジンは、
- 兄が鬼になること
- 鬼が餅を食えず困る様、妹がおいしそうに食べる様
- 下の口
だろう。
Google先生にきいてみると、様々なバージョンの鬼餅物語があった*1が、上2点を外しているものはなかった。
下の口はないものが多かったが、子供向けに「修正」されたのだろう。
自分と血を同じくする、間違いなく人であった兄が鬼になるのは衝撃だ。
この紹介では省いたが、鬼の切り裂けた口・筋骨隆々の様・住処の洞穴の異臭など、兄の鬼としての完成された姿が仔細に描かれたものもある。
人は自身を取り巻く悪環境(今回は貧困)に対する対処を過てば、鬼にもなるということを教える。
また鬼が餅を食えずに困る様は愉快である。
この鬼頭悪いなあ。おかしいと思って、よく観察すれば自分と妹の食べているものが違うことに気づくのに。
と考えるのは早計だろう。
兄の良心が、自分に食えないものも妹は食べることができるという理路を開いたのである。
貧しい状況は兄も妹も変わらない。
兄である自分は、他人の家畜を奪ったり、人を食って生きてきた。
一方の妹は同じ貧しさの中でも人の道を外れずに、兄が生きるために払うことのできなかった労苦 -- 家畜を育てたり、面倒な隣人との支え合い -- を通して日々を生き、自分の前に対座している。
自分が忌避した生き方を通して妹や普通の人々は自身にはない力を備えているかもしれない、と鬼である兄は自分の劣等を密かに恐れて日々を過ごしていたのだろう。
R・K・マートンの言う通り、予言は自己成就する。
餅を食える/食えないという現象を目の当たりにしたとき、これが力の差だ、と兄の良心は考えたのだ。
人は鬼になる、鬼になっても人として苦しむ。
最後、下の口のくだりは、兄の性に対する常識欠如と妹の台詞のユーモアと格好の艶っぽさがおもしろい。
兄は鬼として、普通人が口にしない人肉までも食べている。
兄の食欲は異常なまでに肥大しているのだ。
しかしこの兄は女性の陰部の存在を知らないほど色欲がない。
妹は既に嫁いでいるという設定も多いことから、兄が性的に未熟な年齢にあるとは考えがたい。
人並み程度の性欲があれば陰部の存在、そしてそれが恐怖より快楽に結びつくと知る。
しかし兄は欲求の偏りから、「下の口は鬼食う口」と言われ素直に信じてしまう。
・・・ここまで書いて気づいたが、兄が人を食べていたなら女の陰部を知っていたはずだ。
兄は男の肉が好きで、女には見向きもせず男のみ食べたとすれば説明できなくもないが、僕が食人するのであれば、体毛の少なくて柔らかそうな女を食べたい。
ということはこの兄、実は食人なんかしてなかったのでは?という可能性が出てくる。
うーむ。
多分人を食べる、は比喩なのだと思う。
「人を食う」という慣用表現は、人を人とも思わない態度をとることを意味する。
この兄は、人間に対して人間としてまっとうに接することができなくなった存在、共同体として忌むべきもののシンボルなのだ。
そういう存在は、良心に責め立てられ、自らのドグマから生まれた恐怖によって自滅すると物語は証する。
日本ではここ半世紀ほどで、兄が鬼になった契機である物質的困窮は根絶されたといっていいだろう。
そういう環境改善がなされた今(これからどうなるかわからないけど)、人を食うようなマネはしないぞ、と心に決めつつ、乾燥して堅くなった餅を食うお正月の夜です。
参考資料
- 作者: 高良勉
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/08/19
- メディア: 新書
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私家版・ユダヤ文化論
読んでしまう。
決して読みやすくはない、と思う。
著者が”師”と仰ぎ難解をもって知られるレヴィナスをはじめ、サルトル、フロイトといった大御所から、およそ一部の専門家からしか参照されないだろう歴史上の人物の著書まで手広く引用される。
そもそも30年近くユダヤ教と反ユダヤ主義について研究してきた著者の内田さん自身が、ユダヤ問題について語ることの困難さ随所で漏らしている。
「ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶に入れてそっと運ぶように)、次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えない」
とか。
本書は現在文春新書で手に入る。
新書という形で一般の人になじみの薄いだろう専門分野を取り扱う場合、少なくともその概要が「よくわかる」ことをウリにする。
しかし、著者は本書で、ユダヤは本質的にわからないし、かつ自身がわかっていることもたぶん読者に伝わらないし・・・という一種の諦念を露わにしている。
そういう問題を、そういう意識を持って扱っている人物が書いた、という意味で本書を読むことはそれなりに負荷が高い。
# 「どうせ君なんかに言ってもわからんだろうけどさ、・・・」
# で始まる話をきくのが楽だという人はいないだろう。
さらに、私という読者は、現在までユダヤ人について特別な関心を持っていない。
ユダヤという言葉から、ホロコースト、イスラエルなど、政治と血の臭いを連想し、できればかかわらずに済ませたい、と思っている、”ふつうの人”に過ぎない。
興味のない話を聞いていると眠くなる。
興味のない本は、そもそも買わないし、何かの間違いで買っても読まない。
にも書かわらず、本書は読みだすと、意外と読めてしまった。
うーん、なんでだろう?と思い、再読。
そういう視点で読み直すと、一貫性のなさ、が目に付いた。コンテンツではなく、文や文章の密度それ自体の、である。
著者がヴィヴィッドな切り口から暴論ともいえるような結論を紡ぐ面白さは、多くの人が認めるところだろうし、そのユダヤ論自体に反対する気もないので、以下ではこの”一貫性のなさ”、をミクロとマクロの視点から指摘してみる。
まず、ミクロについて見ると、著者の筆の勢いに一貫性がない。
たとえば、サルトルとレヴィナスという「二十世紀を代表する哲学的知性」のユダヤ人論を気焔を吐いて比較検討した結語は以下の通り。
「始原の遅れ」の覚知こそが「ユダヤ的知性」(というよりは「知性そのもの」)の起源にあるものなのである(たぶん)。
格好いい結論なのに、たぶん、かーw
それまで「聖史的宿命」とか頑張って読み込んでいたのが、ふっと軽くなる。また次のページへ進む自然なエネルギーが湧く。
次に、マクロ。章ごとの重さ、に一貫性がない。
「はじめに」で、ユダヤを語る難しさをまず断る。
なるほど、これは気合を入れて読まねば、という気にさせられる。
「一章」で、ユダヤ人というものを定義できない、という趣旨の発言をし、これから向かっていくはずの対象を霧散させる。よくわからないからもう少し読もうという気になる。
かと思うと、「二章」で日本人とユダヤ人の歴史について語り、問題を身近なものに振り戻す。
明治期の人がユダヤについて奇想天外な説を論じていてトリビア的な面白さ。
「三章」では、モレス侯爵という「世界最初のファシスト」の生涯を詳細に(必要以上といってもいいと思う)叙述する。伝記は読みやすい。
挫折する人が多いだろう、100ページ目あたりから本章は始まり、読み終わると、全体の2/3は読み了えている。
「終章」。
「四章」ではないのがいやらしい。
ここではユダヤ人そのものを真っ向から取り扱う。
難しい。半分もわからなかった気がするが、そもそも「四章」一節タイトルは「わけのわからない話」。
そういうもんだと黙々と読み進めると、残るはあとがきだけであった。
最初と最後は頑張るが、中だるみするという人間の典型的なパターンを念頭に置かれた素晴らしい配置である。
そして著者の設計した読みやすさに乗せられ、読み終えてみると、はたせるかな、(予告通り)ユダヤについてクリアな像は得られなかった。
いろんな人の、気難しく、ときに怪しげな思想の断片に触れつつ、古今東西の出来事をうろうろした、その感触の”明るさ”が手元に残る読書体験であった。