鬼餅(ムーチー)

旧暦の12月8日、沖縄諸島ではムーチー(鬼餅)行事があるそうだ。
ムーチーとは月桃やクバの葉で包んだ餅のことで、これを食べて子供や家族の健康祈願をする。

さてこの鬼餅だが、以下の鬼退治の昔話に由来している。

昔、首里の金城村に両親に先立たれた兄と妹が貧しくも仲良く暮らしていた。
兄はひょんなことから、大里(うふざと)というところに移り住んだ。


ある日、妹はこんな噂を耳にする。
兄が夜な夜な村を襲い、鶏や牛を盗み、更には人間までも殺して食べている。


妹は兄の住む大里まで行き、噂がほんとうだったことを確かめてしまう。


鬼になった兄を退治する決意を固めた妹は、中に鉄をいれたお餅とふつうのお餅を作って兄を誘い、断崖絶壁の上の野原でいっしょに食べることにする。


兄には鉄のお餅、自分にはふつうのお餅。


兄は鉄の餅を噛み切れず、妹が平気で食べるのを見て愕然とする。
鬼の自分でも食べられない程堅いものを、妹はおいしそうに食べている!


餅を食べあぐねた鬼の目に妹のホー(陰部)が映る。
兄はそれを不思議に思い、「お前の下の口は一体なんだ?」と尋ねる。


妹はこう答える。


「上の口は餅食う口、下の口は鬼食う口」


着物を捲し上げ、兄の顔前に晒す。
恐れの余り兄は後方に退き、崖から落ちて死ぬ。

インパクトの強い話だ。
多分ずっと忘れないだろう。


昔話は何世代にも渉って人々が繰り返し記憶し、繰り返し語り聞かせた話である。
とすれば、多くの人間が飽くことなく記憶し、語りたくなるようなエンジンが物語の中には仕掛けられている。
昔話は忘れられないように、人に伝えたくなるようにできているのである。
だから、僕は今物語によってキーボードを叩くよう促されていると言える。


鬼餅昔話のエンジンは、

  • 兄が鬼になること
  • 鬼が餅を食えず困る様、妹がおいしそうに食べる様
  • 下の口

だろう。

Google先生にきいてみると、様々なバージョンの鬼餅物語があった*1が、上2点を外しているものはなかった。
下の口はないものが多かったが、子供向けに「修正」されたのだろう。


自分と血を同じくする、間違いなく人であった兄が鬼になるのは衝撃だ。
この紹介では省いたが、鬼の切り裂けた口・筋骨隆々の様・住処の洞穴の異臭など、兄の鬼としての完成された姿が仔細に描かれたものもある。
人は自身を取り巻く悪環境(今回は貧困)に対する対処を過てば、鬼にもなるということを教える。


また鬼が餅を食えずに困る様は愉快である。


この鬼頭悪いなあ。おかしいと思って、よく観察すれば自分と妹の食べているものが違うことに気づくのに。


と考えるのは早計だろう。
兄の良心が、自分に食えないものも妹は食べることができるという理路を開いたのである。


貧しい状況は兄も妹も変わらない。


兄である自分は、他人の家畜を奪ったり、人を食って生きてきた。


一方の妹は同じ貧しさの中でも人の道を外れずに、兄が生きるために払うことのできなかった労苦 -- 家畜を育てたり、面倒な隣人との支え合い -- を通して日々を生き、自分の前に対座している。


自分が忌避した生き方を通して妹や普通の人々は自身にはない力を備えているかもしれない、と鬼である兄は自分の劣等を密かに恐れて日々を過ごしていたのだろう。
R・K・マートンの言う通り、予言は自己成就する。
餅を食える/食えないという現象を目の当たりにしたとき、これが力の差だ、と兄の良心は考えたのだ。


人は鬼になる、鬼になっても人として苦しむ。


最後、下の口のくだりは、兄の性に対する常識欠如と妹の台詞のユーモアと格好の艶っぽさがおもしろい。


兄は鬼として、普通人が口にしない人肉までも食べている。
兄の食欲は異常なまでに肥大しているのだ。
しかしこの兄は女性の陰部の存在を知らないほど色欲がない。
妹は既に嫁いでいるという設定も多いことから、兄が性的に未熟な年齢にあるとは考えがたい。


人並み程度の性欲があれば陰部の存在、そしてそれが恐怖より快楽に結びつくと知る。
しかし兄は欲求の偏りから、「下の口は鬼食う口」と言われ素直に信じてしまう。


・・・ここまで書いて気づいたが、兄が人を食べていたなら女の陰部を知っていたはずだ。
兄は男の肉が好きで、女には見向きもせず男のみ食べたとすれば説明できなくもないが、僕が食人するのであれば、体毛の少なくて柔らかそうな女を食べたい。


ということはこの兄、実は食人なんかしてなかったのでは?という可能性が出てくる。
うーむ。

多分人を食べる、は比喩なのだと思う。
「人を食う」という慣用表現は、人を人とも思わない態度をとることを意味する。
この兄は、人間に対して人間としてまっとうに接することができなくなった存在、共同体として忌むべきもののシンボルなのだ。


そういう存在は、良心に責め立てられ、自らのドグマから生まれた恐怖によって自滅すると物語は証する。


日本ではここ半世紀ほどで、兄が鬼になった契機である物質的困窮は根絶されたといっていいだろう。
そういう環境改善がなされた今(これからどうなるかわからないけど)、人を食うようなマネはしないぞ、と心に決めつつ、乾燥して堅くなった餅を食うお正月の夜です。


参考資料

高良勉『沖縄生活誌』 岩波新書 2005

沖縄生活誌 (岩波新書 新赤版 (966))

沖縄生活誌 (岩波新書 新赤版 (966))

日刊OkiMag
http://okinawan.jp/minwa/minwa011.htm

*1:兄が火にかけている釜を妹が開けてみると、入れ墨をした女性の手が出て来て兄の変質を確信するグロテスクなものもあった。入れ墨はおそらく針突(ハジチ)と呼ばれる成人女性の印かと思う。針突は明治32年の入墨禁止令を契機に失われていく。