私家版・ユダヤ文化論

読んでしまう。
決して読みやすくはない、と思う。

著者が”師”と仰ぎ難解をもって知られるレヴィナスをはじめ、サルトルフロイトといった大御所から、およそ一部の専門家からしか参照されないだろう歴史上の人物の著書まで手広く引用される。

そもそも30年近くユダヤ教反ユダヤ主義について研究してきた著者の内田さん自身が、ユダヤ問題について語ることの困難さ随所で漏らしている。

ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶に入れてそっと運ぶように)、次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えない」
とか。

本書は現在文春新書で手に入る。
新書という形で一般の人になじみの薄いだろう専門分野を取り扱う場合、少なくともその概要が「よくわかる」ことをウリにする。
しかし、著者は本書で、ユダヤは本質的にわからないし、かつ自身がわかっていることもたぶん読者に伝わらないし・・・という一種の諦念を露わにしている。

そういう問題を、そういう意識を持って扱っている人物が書いた、という意味で本書を読むことはそれなりに負荷が高い。

# 「どうせ君なんかに言ってもわからんだろうけどさ、・・・」

# で始まる話をきくのが楽だという人はいないだろう。

さらに、私という読者は、現在までユダヤ人について特別な関心を持っていない。
ユダヤという言葉から、ホロコーストイスラエルなど、政治と血の臭いを連想し、できればかかわらずに済ませたい、と思っている、”ふつうの人”に過ぎない。
興味のない話を聞いていると眠くなる。
興味のない本は、そもそも買わないし、何かの間違いで買っても読まない。

にも書かわらず、本書は読みだすと、意外と読めてしまった。
うーん、なんでだろう?と思い、再読。

そういう視点で読み直すと、一貫性のなさ、が目に付いた。コンテンツではなく、文や文章の密度それ自体の、である。

著者がヴィヴィッドな切り口から暴論ともいえるような結論を紡ぐ面白さは、多くの人が認めるところだろうし、そのユダヤ論自体に反対する気もないので、以下ではこの”一貫性のなさ”、をミクロとマクロの視点から指摘してみる。


まず、ミクロについて見ると、著者の筆の勢いに一貫性がない。

たとえば、サルトルレヴィナスという「二十世紀を代表する哲学的知性」のユダヤ人論を気焔を吐いて比較検討した結語は以下の通り。


「始原の遅れ」の覚知こそが「ユダヤ的知性」(というよりは「知性そのもの」)の起源にあるものなのである(たぶん)。


格好いい結論なのに、たぶん、かーw
それまで「聖史的宿命」とか頑張って読み込んでいたのが、ふっと軽くなる。また次のページへ進む自然なエネルギーが湧く。

次に、マクロ。章ごとの重さ、に一貫性がない。

「はじめに」で、ユダヤを語る難しさをまず断る。
なるほど、これは気合を入れて読まねば、という気にさせられる。

「一章」で、ユダヤ人というものを定義できない、という趣旨の発言をし、これから向かっていくはずの対象を霧散させる。よくわからないからもう少し読もうという気になる。

かと思うと、「二章」で日本人とユダヤ人の歴史について語り、問題を身近なものに振り戻す。
明治期の人がユダヤについて奇想天外な説を論じていてトリビア的な面白さ。

「三章」では、モレス侯爵という「世界最初のファシスト」の生涯を詳細に(必要以上といってもいいと思う)叙述する。伝記は読みやすい。
挫折する人が多いだろう、100ページ目あたりから本章は始まり、読み終わると、全体の2/3は読み了えている。

「終章」。
「四章」ではないのがいやらしい。
ここではユダヤ人そのものを真っ向から取り扱う。
難しい。半分もわからなかった気がするが、そもそも「四章」一節タイトルは「わけのわからない話」。
そういうもんだと黙々と読み進めると、残るはあとがきだけであった。

最初と最後は頑張るが、中だるみするという人間の典型的なパターンを念頭に置かれた素晴らしい配置である。

そして著者の設計した読みやすさに乗せられ、読み終えてみると、はたせるかな、(予告通り)ユダヤについてクリアな像は得られなかった。

いろんな人の、気難しく、ときに怪しげな思想の断片に触れつつ、古今東西の出来事をうろうろした、その感触の”明るさ”が手元に残る読書体験であった。